リュック・ベッソンの新作SFは「歴史に残る駄作」になれるか?|WIRED.jp – WIRED.jp

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フランスの人気コミックを原作に、リュック・ベッソンが20年ぶりに手がけたSF大作『Valerian and the City of a Thousand Planets』が米国で公開された。興行収入も評価も散々な結果に終わったが、本作は人々が時間をかけて見続ける作品になる──かもしれない。

TEXT BY ADAM ROGERS

WIRED(US)

米国で2017年7月21日に公開されたSF映画『Valerian and the City of a Thousand Planets』(以下『ヴァレリアン』)が大コケした。リュック・ベッソンが脚本・監督を担当したことで前評判こそ高かったが。最初の週末の興行収入は、たったの1,700万ドル(約19億円)ほど。映画サイト「Rotten Tomatoes」での評価は、無惨にも54パーセントだった(公平を期すために言うと、観客の評価はそれ以上の60パーセントである)[編註:7月24日時点の数字。その後、さらに評価は下がっている]。

映画の財政上の健全さはさておき、『ヴァレリアン』を観たあとの本当の問いはこれだ。その出来はどうなのか?

新作の完成度は「まぁまぁ」

その答えは「まぁまぁ」だ。大部分においては「楽しいB級映画」だった。ベッソンのトレードマークである浮世離れしたヴィジュアルと、ぐいぐい引っ張っていくストーリー展開、スピード感、すべてがそこにある。ただし、退屈なCGのエイリアン同士が戦うシーン以外は。

ただ、ベッソンらしくもない配役ミスにはショックを受けた。脇役はいつも通り変わり者(ハービー・ハンコック!)なのだが、主演のデイン・デハーンとカーラ・デルヴィーニュについては──ベッソンは新たなブルース・ウィリスとミラ・ジョヴォヴィッチ的なアクションロマンスを生み出せたとはいえない。

デハーンが何度「自分は向こう見ずの悪党だ」と言おうと、デルヴィーニュが「自分はルールが大嫌いで愛を信じている」と言おうと、説得力がない。頭のなかで、彼らを「ゲーム・オブ・スローンズ」のキット・ハリントンと、「エージェント・オブ・シールド」のクロエ・ベネット、あるいはマーベル映画のアンソニー・マッキーと「スーパーガール」のメリッサ・ブノワに置き換えてみるといい。どちらの妄想でも、よりよい鑑賞体験になる。

人々が見続ける映画

ベッソンが彼の映画をほかとはまったく違ったものにしているのは、感情的なコンテクストを全開のアクションに織り込んでいることだと力説する。ニキータは人殺しをしたくない。ルーシーは超能力の影響で人間らしくなくなり、パリでのカーチェイスで運転を楽しむことさえできない。

しかし本作では、生身の俳優たちをその方程式から外し、CGの宇宙船に置き変えることで、それができなくなってしまったのかもしれない。あるいはベッソンは、人間らしさをJ.J.エイブラムスやパティ・ジェンキンスのように、巧みなレーザー音でただ編集しないだけかもしれない。

『フィフス・エレメント』でも『LUCY/ルーシー』でも、ベッソンのカルトSF映画は、興行収入や批評といった意味では善戦しなかった。とはいえ、どちらもケーブルテレビで頻繁に放送されているし、どちらも見かければついつい見てしまう作品になった。

これらの前例を踏まえると、『ヴァレリアン』は少なくとも長い目で見ればうまくいくように思える。ベッソンらしい、奇妙にも惹かれる場面やびっくりする場面はあるからだ。だから、製作に2億ドル(約220億円)かかったことは一旦忘れよう。この映画は「人々が見続ける映画」に成長する気がする。

そのほかの点では、これは新たな『ジュピター』で、監督の単一の視点が高度にデザインされた、ただただ酷いSF傑作映画である。ベッソンは脚本を書き、プロダクションデザインにじっくりと細心の注意を払い、いつも通り丹精をこめて監督した。ベッソンは自分のプロダクションカンパニーを通して、基本的に自身に融資したのだ。

つまり、この作品に関して映画会社の重役は責められない。良かれ悪かれ、これが自由に生み出されたクリエイティヴ作品というものなのだ。

当初、『ヴァレリアン』の特集記事(『WIRED』US版2017年7月号掲載)を書く企画を出したとき、この映画は『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』以来の最高傑作になるか、デヴィッド・リンチの天を仰ぎたくなる駄作『デューン/砂の惑星』のような壊滅的作品になるだろうと言った。すなわち、どちらの場合も歴史に残るだろう、と。そして少なくとも、この大金を費やした映画が、どのように資金を調達するのかを理解する機会にはなるだろうとも。

後者に関しては理解しかけたと思う。前者に関しては、2037年のケーブルテレビの視聴者がボタンひとつで答えてくれるかもしれない。いや、そのころにはもはやボタンなんてものはないかもしれないが。






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