ああ、麗しのオーストラリア暮らし 1977年生まれの憂鬱、光明(前編) – 日豪プレス

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BBKの突撃・編集長コラム 不定期連載 第24回

ああ、麗しのオーストラリア暮らし
──1977年生まれの憂鬱、光明(前編)

1977年10月、日豪プレスが創刊されたその年、その月に僕は生まれた。偶然と片付けてしまえばそれまでだが、何やら因縁めいたものを感じるとでも言っておいた方がストーリーとしては美しいかもしれない。

今回は日豪プレスと全く同じ歳月を過ごしてきた僕が、どのようなことを感じながら日本で暮らし続け、そしてどのような思いでオーストラリアへの移住を決意し、そして日豪プレスと出合い、今に至るのか、それを書いてみようと思う。素の自分について書くのは気恥ずかしくもあるが「書いて欲しい」という周囲の声もあり筆を取ることにした。オーストラリアへの定住を目指したい人への何かしらのエールになれば幸いだ。

乱暴な言い方をすると、僕がオーストラリアに移住した端的な理由は「日本社会に息苦しさを感じた」からだ。相互監視的な日本社会は僕には狭く、息苦しく、そしてコンクリート・ジャングルの中で満員電車に揺られながらオフィスと自宅を行き来する生活は仕事の内容こそ刺激的であったとしても総体としてはあまりに単調で、それでいて肉体的にはとてもハードだった。

日本文学を追究した大学時代を経て、僕は今に至るまで一貫してメディア業界に居続けている。メディア業界、とりわけ活字メディアにこだわっている理由は実に単純だ。僕が人より少しだけ得意としていることが文章を書くことで、それを生かせる仕事に従事したいと考えたからだ。更に、できることならば同じ日常を繰り返したくないと考えており、記者になれば日々起きるさまざまな出来事に翻弄される形で少なくとも刺激的な日々を送れるに違いないと思っていた。加えて世の中の仕組みを解き明かしたいという欲望もあり、それには打って付けの仕事だと考えた。

記者の仕事はたいへん楽しかったが、なかなかにハードで会社に泊まり込みで数日家に帰れないなどといったことも珍しくなかったし、早朝深夜の出動も当たり前だった。変化に富んだ日常も精神的に余裕のある状態であれば楽しめるが、僕の精神は年月を掛けて少しずつ擦り減っていき、徐々に追い詰められていった。そんな生活を続ける中、この生活に何の価値があるのだろうか。ここは僕のいるべき所ではないのかもしれない、などと思うようになり、時に吐き気が止まらなくなったり、呼吸の仕方が分からなくなって苦しんだりなどした。

そんなにしんどいならやめちまえ。今なら簡単に言える。しかし、当時の僕にとってその状況から逃れることはなかなか容易ではなかった。社会のレールから外れることなどとても恐ろしてくできなかった。小学生の頃から受験戦争を戦い、何とか進学校に入り、途中グレたりしながらも何とかある程度良しとされる大学に入り、就職氷河期1期生ながら何とか就職にこぎつけ(これは僕ら世代の悲劇だ。前年まで50人の募集だった会社が僕らの年には5人の募集に縮小するなどざらで、文系の学生の中には90社受けても受からないやつもいた。実際、僕も書類段階で落とされまくった)、まあまあ死ぬほど頑張ってそれなりの地位を手に入れ、曲がりなりにも軌道に乗った生活を東京で手に入れた当時の僕にとってそのポジションを手放すなどできるわけがない。最終的に東京での社会人生活は12年間に及んだ。

転機は勤めていた会社の倒産だった。当時僕はジャーナリストとしての実力を磨きたいという気持ちから、最初に就職したスポーツ系の出版社を退職し、著名ジャーナリストの鳥越俊太郎さんが編集長、元『週刊現代』名物編集長の元木昌彦さんが編集長代理を務める話題のウェブ・メディアに転職していた。主に、スポーツ・芸能・エンタメ方面を中心に、東京国際映画祭や東京マラソンなどのイベント取材、芸能人へのインタビュー取材などさまざまな経験を積み、つらいながらも刺激的な生活を送っていた。

夏目漱石の小説の中のセリフに「向上心のない奴はバカだ」というものがあるが、僕はその言葉がなぜか好きで、その言葉を胸にスキルを上げたい一心でとにかくがむしゃらに取材して記事を書いた。そうしていればきっと人生も快方に向かうに違いないと信じて。

だが、心を削りながらも自分を捧げていた会社は親会社社長の鶴のひと声である時一瞬にして消えてしまった。ジャーナリスト集団だったその会社にお金儲けを考えられる人はいなかったからだ。

当時僕は32歳だった。そして時同じくして家の契約が切れ追い出されることになるという「泣き面に蜂」のような出来事も起きた。会社が倒産し、家も追い出される事態に、大の大人としては恥ずかしくも泣いてしまった。そして気付いたのだ。いやだ、つらいと言いながら社会や会社、組織にしがみついていたのは自分の方だったのだと。それに気づいた時、僕の中で何かが大きな音を立てて崩れ落ちた。大きな体制にしがみついて生きていくのはやめよう。自分の足で大地を踏みしめ、自分の人生を生きよう。

会社都合での解雇のため幸い失業手当はすぐに出る。失業手当は収入額に応じて算出され、悪くない給料をもらっていたこともありすぐに生活に困ることはなかった。僕はこの時期を天から降って来た休み時間と身勝手に捉え「ロング・バケーション」と称し、タイへの一人旅など遅まきながら「自分探しの旅」に出た。周りからは「就職活動もせず、気楽でいいな、お前は」などと言われ、ヘラヘラ笑ったりしていたが、働かずに考え続ける時期というのはとても苦しいものだ。僕は心の中でその後の人生への不安を抱えながら、それでも自分なら何とかできると言い聞かせて数カ月の無職生活を謳歌した。

数ヵ月の悩める日々を経て僕は思った。自分がいるべきフィールドは日本国内にないのではないか。もっと自由に羽ばたける場所があるのではないか。そして僕は決めたのだ。2年後、オーストラリアに移住すると。なぜ、オーストラリアか。次はそこに至るストーリーを書いていこう。

子ども時代のストラグル

東京生まれ、東京育ち。便宜的にそう言っているが、ルーツは東京ながら僕が実際に生まれ落ちたのは埼玉の病院だった。幼少期を埼玉の浦和で過ごし、小学校に上がるタイミングで父親の転勤で北海道札幌に居を移す(その時期スキーにはまった経験が、結果的には弊社が発行する『jSnow』につながっている)。札幌での3年間を経てすっかり北海道人になったが(子ども時代の3年間は今とは比較にならないほど長い)、小学校4年の頭に急きょ転勤で東京に移り住むことになった。札幌の小学校の同級生には「東京は勉強のレベルが高いぞ。頑張れ」などのエールと共に見送られたが、実際、その頃僕は東京に移り住むことに興奮を覚えていたくらいで、その点で言えば、僕は地方出身者のマインドと同じものを持っているのだと思う。

転勤当初は「北海道」というあだ名を付けられからかわれたりしたものの、徐々に東京での暮らしになじんでいった。一方、そのころから親の教育熱が過熱。週に数回学習塾に通い、毎週末模擬テストを受ける生活が始まった。息抜きは塾のない放課後、校庭で友達とやるサッカーや、友達の家でやるファミコン、ミニ四駆の改造などだった。憧れは中山美穂と高橋名人、クラスの女子は光GENJIにキャーキャー言っていた。

小学校では学級委員を務め、塾に通っていたから成績も良く、足も速かったため下駄箱に見知らぬ後輩からラブレターが入っているなどということもたまにあった。一方、塾では教室の前で羽交い絞めにされ、順番に蹴りを入れられるなどのいじめも経験した。学校と塾での自分の扱われ方のあまりの違いに僕は自分のキャラクターがよく分からなくなり、混乱した。

結局その塾をさぼり始め、塾から親に連絡が入るようになり、僕は塾を辞めることとなった。人生最初の挫折だ。その後、一応中学受験には成功、エスカレーター式に高校に進学、一時不良化し、停学などもひと通り経験したものの更生し、大学へと進学。子どもながらになかなか生きるのも大変だったが、何とか都度乗り越え、大人になっていった。海外は全く未知の場所で、修学旅行で行った沖縄が僕にとって唯一の「異国的体験」だった。

生来の読書好きから大学では文学部日本文学科に所属し、スキー・サークルに入部。勉強は適当にこなし、バイトとサークル活動に精を出し、暇さえあれば飲み会やデートと、ごくごく一般的な退屈な文系大学生だった。そんな大学生活を謳歌している時、親しい友人に「一緒にバックパッカーやろうぜ」と誘われた。大学2年の夏だった。行き先はオーストラリア。どんな国かもよく分からなかったが親が旅費を援助してくれると言うのであまり深く考えずに行くことにした。今から20年前、まだシドニー五輪が行われる前のことだった。

まずはシドニーに入り、バックパッカーズ・ホステルにチェックイン。オーストラリア全土を周遊できる長距離バス・チケットを購入、それから約1カ月掛けてメルボルン、アデレード、アリス・スプリングス、エアーズ・ロック、テナント・クリーク、タウンズビル、ケアンズの順にオーストラリア大陸の半分を回った。友達とは途中で喧嘩別れし1週間ほど別の都市で行動したりなどした。この旅の顛末はまた改めて書く機会もあると思うが、この旅で僕が感じたのは「この国はなんて大らかですてきなのだろう」ということだ。若いながら、東京で社会のしんどさを感じていた僕にとってオーストラリアでの生活はとても魅力的に映った。

当時の僕は都心のコンクリート・ジャングルに辟易していた。生粋の都会人であればもしかしたら気にならないのかもしれないが、その点僕は半端者だ。自然豊かな北海道で子ども時代を過ごしてしまっていたため、都会の自然の少なさに辟易してもいたのだ。そのタイミングで訪れたオーストラリアの自然は僕の目にはあまりに雄大で魅力的に映った。

20年前、オーストラリア大陸中央部、キングス・キャニオンで
20年前、オーストラリア大陸中央部、キングス・キャニオンで

旅の行く先々で、思い切って会社を辞めてオーストラリアに来ているワーキング・ホリデー・メーカーの人びととたくさん出会った。バイクで大陸を一周している人もいれば、将来へのキャリア作りにローカルの会社で働く人などさまざまだった。当時20歳だった僕にとって彼らは一度社会人を経験していることもあってそれこそ手の届かないくらい大人で、皆輝いていてすてきだった。彼らの多くはそれぞれ熱い思いを胸にオーストラリアを訪れており、一瞬一瞬の時間を大切にし、そして日本に帰ってからの夢を熱く語ってくれた。

僕は彼らから本当にたくさんのことを学ばせてもらった。仕事探しのアドバイスから恋愛のアドバイス、人生指南……。彼らは本当にキラキラしていた。僕にとって今でもワーキング・ホリデー・メーカーは尊敬の対象だ。自分がオーストラリアに定住している今となってもそれは変わらない。期間が限られているからこそより輝きを増す彼らの熱意はおよそなかなか見ることのできぬほどの熱量だ。彼らのパワーには自身の、そして人の人生をも変える力があると思う。事実、僕の行動の背中を押してくれた手の中には旅先で出会った無数のワーキング・ホリデー・メーカの人びとのものも少なくない。

いずれにせよこの時の旅を経験しオーストラリアは僕にとって忘れられぬ土地となった。その旅以降、僕は「いつかオーストラリアに戻りたい」という気持ちを抱くようになったのだ。

その後就職。前段の話に戻るわけだが……、続きはまた次回。


<プロフィル>BBK
2011年来豪、14年1月から日豪プレス編集長。スキー、サーフィン、牡蠣、筋子を愛し、常にネタ探しに奔走する根っからの編集記者。齢40に突入♂。読書、散歩、晩酌好きのじじい気質。






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